Jan. 2, 2024

令和5年、甲辰、1940年生まれの私は今年は年男だ。84歳で迎える新年はおそらく次の干支の辰まではどう?

人生100年、ということだがそんなに長生きできるとしたら、まだまだチャレンジの人生はやめられない。。

 

我が家の新年、2024年は・・・

我が家の犬たちとサンタクロース
我が家の犬たちとサンタクロース
初日の出
初日の出
ベランダ下の海でくるログ冬鳥、鴨の群れ
ベランダ下の海でくるログ冬鳥、鴨の群れ



今年もなだ万のおせちを頼んだ。千恵子がこれまで楽しみだったおせち作りが病気のせいで出来ないからだ。

お酒はいつものように福寿のノーベル賞パーテイの振る舞い酒、それにセブンイレブンのワインヨセミテだ。



 

 年頭にあたり私が青春時代を過ごした私の福岡での思い出を聞いて下さい。

 私は昭和15年8月22日に父池田熊雄、母逹子( 旧姓佐々木逹子)の長男として神戸市灘区で生まれた。翌16年   ( 1941年) 12月 太平洋戦争が始まるが父は住友製鉄に勤務していたのだが体が弱くて兵役につくことがなかったので私が生まれた頃は神戸製鋼で研修中、そこで私は神戸で生まれた訳だ。もともと父は朝鮮全羅北道郡山府竹城里で生まれ当時の旅順の大学卒の鉄鋼マン、母は台湾台北城南街参丁目貮拾六番地の台湾生まれで中高の国語教師、今なら外国生まれの夫婦だが縁あって神戸で結婚し私が生まれた。生まれてすぐ旅順に父の仕事のため父母に連れられて行ったのだが戦争が勃発、すぐに関西に戻ってきたわけで昭和18年には西宮で弟正徳が生まれた。その年戦争が激しくなり九州の佐賀県鹿島市の父の故郷へ疎開した。昭和20年8月15日に終戦となったが昭和21年佐賀県鹿島市で三男桂一が生まれた。私は6歳で小学校の入学時期を迎え父は福岡の西南学院高等学院の理科の教職を得たので家族で福岡に出た。福岡市で私は簀子小学校の新入生として入学、福岡では4男の弟光司が昭和24年に生まれたがこの頃の家は福岡市内城内町に出来た引き揚げ者住宅でそこに親子6人が移り住んだ。小学校の3年生の頃に父が結核を発病して福岡城内にあった国立福岡病院に入院、母は英語が得意で結婚前は中高の国語の教師だったのだが福岡市内板付にあった米軍基地の駐留軍ベースの家族の日本語教師として働いて家族を養うことになった。ここで米軍基地の小学校教師のジャネット・ウオードさんと知り合い、親しくなって我が家にも来られるようになり、私たち兄弟も可愛がって頂いた。福岡での私の印象は福岡城の城内町から小学校や中学へ通ったが、西南学院中学、この学校は祖父の佐々木賢治や父親が勤めていた関係で授業料は無料だった。中学には福岡の市電で通った。家から城内を抜けると城壁の上にある塩見櫓があったのを今も思い出すし、同じく城内にあった平和台陸上競技場や平和台野球場がプロ野球の西鉄ライオンズの球場だったことは福岡城の思い出として今も忘れられない。色々思い出多い青春の日々だったが西南学院中学部から県立中央高等学校に進んだが高校一年の春父と別れて母は大阪の大阪女学院の教師の職を得た。その時から日本が好きになられて住む息気になられた英語教師のジャネット・ウオードさんとの我が家での一緒の生活が始ま理、ウォードさんは日本の大学や学校の英語教師となられた。私はそんな果敢な年頃に暮らした福岡は今でも時々思い出すがとりわけ福岡のお城のあれこれは今では思い出歩多い記憶だ。城内町の家の近くでは陸上競技場で多くのマラソン大会が行われ、球場では西鉄ライオンズが破竹の勢いでその頃進撃していた。

今平和台球場はソフトバンクホークスのドーム球場、マラソンの平和台陸上競技場はどうなっただろうか。博多駅から神戸へはその頃の深夜特急列車あさかぜの寝台車で6人は神戸駅へ降り立ったのである。

 西九州新幹線は2022年9月に長崎〜武雄温泉 ( 佐賀県 )が部分開業したが福岡までのルートはまだ決まっていない。2021年10月私と弟光司は二人で佐賀県鹿島にある父の墓参りと西九州を回る旅をした。私は福岡の博多駅まで出て鎌倉からやってきた光司と合流、レンタカーでの1泊2日の旅、福岡からハイウエイで佐賀の嬉野温泉まで走り温泉の旅館和楽園で一泊、翌日は鹿島にあるお寺西宗寺へ参り、祐徳神宮を経て有田焼の里を通って唐津へ、唐津から博多へハイウエーを戻って福岡から光司は飛行機で家へ、私は新幹線で帰った。嬉野温泉では翌年開業する西九州新幹線の話題が盛んだったが新型コロナの流行で人通りの寂しい街に来るべき新幹線の開業による来客の賑わいを密かに待っている感じの温泉街だった。嬉野も有田も大変静かな街だった。